[カテゴリー:問答の観点からの認識]
「自然現象に規則性はありますか」という問いに、「いいえ、自然現象に規則性はありません」と答えることは矛盾しています。なぜなら、もし自然現象に規則性がないならば、自然現象ついて問うことが無意味になるからです。例えば、「五輪を開催しても、コロナ感染は大丈夫でしょうか」という問いは、「世界には規則性があり、五倫を開催しても、コロナ感染が大丈夫かどうかは、自然現象の規則性によって決まっている」ということを意味論的に前提しています。この問いが真なる答えを持つためには、このことを前提しなければならないし、もしこれを前提しなければ問うことは無意味になるでしょう。したがって、自然現象の斉一性は、自然現象について問うための意味論的前提です。問いの意味論的前提は、当然答えの意味論的前提でもあります。
「自然現象には規則性ありますか?」という問いに「いいえ、自然現象には規則性はありません」と答えることは、自然現象についての問いの意味論的前提に反する問いです。そしてそれに「いいえ」と答えることは、問答論的に矛盾します。したがってこの問いに対しては、「はい、自然現象には規則性があります」と答えることが問答論的超越論的に必然的である。(「問答論的矛盾」による超越論的論証については、『問答の言語哲学』第四章を参照してください。)
では例えば「サイコロを転がして出る目に規則性はありますか?」という問いの場合はどうでしょうか。ふつうは、これに「サイコロ投げの個々の結果には、規則性はありませんが、統計的には、それぞれの目が出る確率は1/6です」と答えるでしょうが、しかし「いいえ、規則性はありません」と答えたとしても、それは問答論的に矛盾しません。なぜなら、この問いを問うことは、サイコロを転がして出る目に規則性があることを前提していないからです。ただし、この問いは、「サイコロを転がして出る目には、規則性があるか、ないか、のどちらからである」を前提しています。
私たちは、自然現象の中に規則性を持たない現象を見つけることができるかもしれないし、「どのような自然現象が規則性を持たないのか?」と問い、そのような現象を探そうとすることも可能です。しかし、この問いもまた、規則性を持たない自然現象であることについての、規則を見つけようとしています。つまり、「規則性を持たない自然現象があるかどうか、もしあるとすればそのような自然現象はどのような性質を持つのか」というような問いは、自然の斉一性に関する問いですが、このような問いもまたは、自然の斉一性を前提しています。
次回は、これをさらに深く問いたいと思います。